歴史
千光寺の歴史
嵐山渡月橋から大堰川の右岸を約1km上流に上ると大悲閣千光寺にあがる参道の石段が見える。
石段を登ると、嵐山中腹に位置する千光寺に至る。山門を潜り鐘楼の脇を上がり展望台に出る。
山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺と言う。
嵐山渡月橋から大堰川の右岸を約1km上流に上ると大悲閣千光寺にあがる参道の石段が見える。
石段を登ると、嵐山中腹に位置する千光寺に至る。山門を潜り鐘楼の脇を上がり展望台に出る。
山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺と言う。
初め天台宗、文化五年以降黄檗宗、本尊は恵心僧都作と伝える千手観音である。
千光寺はもと清涼寺の西方中院にあって、後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していた。
慶長十一年(1606)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が同十九年に現在地へ移し、 大悲閣を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山とした。
千光寺はもと清涼寺の西方中院にあって、後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していた。
慶長十一年(1606)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が同十九年に現在地へ移し、 大悲閣を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山とした。
了以は天台宗を奉じていたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)ねんに大顚を迎えて再興したとき、寺は黄檗宗となった。「角川文庫」
かつて大悲閣の一室には遺命により作られた了以像が安置されていた。
巨縄を巻いた形の円座(木彫)に坐し、石斧を手にして右立て膝の構えで保津川をのぞむ形である。
了以自身も大悲閣に住み開削した諸川の通船の便益を念じたといわれている。
寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失ったが、明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂を整備した。
了以自身も大悲閣に住み開削した諸川の通船の便益を念じたといわれている。
寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失ったが、明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂を整備した。
